欲望で世の中を切り取ります

欲望というモノサシを使うと、世の中の不条理が合目的であることが理解できます

偉い人すら悩んでいた!生き方について学ぶ『私の個人主義』

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

千円札になるような人物が、自分の生き方についてこんなにも悩んでいて、最初は、浮ついた気持ちで西洋文学をしていたのか!と知ることが驚きでした。自分が西洋文学を嗜んでいたときを振り返り、こう貶すのです。

ある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、無闇にその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑といってもよし、また機械的の知識といってもよし、到底わが所有とも血とも肉ともいわれない、よそよそしいものを我が物顔に喋って歩くのです。しかるに時代が時代だから、また、みんながそれを誉めるのです。けれどもいくら人に褒められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手も無く、孔雀の羽根を身に付けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華を去ってしじつに就かなければ、自分の腹のなかは、いつまでたってって、安心はできないということに気がつき出したのです。

で、そもそも、国民の気質が違うものを批評できるのか?という疑問にたどり着き、まず、自分の立脚地を固めるため、文芸とは全く縁のない科学や哲学の書物を読み始めた。根無し草と知った後のスタイルが面白い。で、西洋人ぶらずに、自分の良いというものをむしろ西洋人にぶつけてみよう!という事業に行き着くのです。彼が、同じように悩む若者にたいして言い放つ下記の言葉は胸を打ちます。

何かに打ち当たるまで行くということは、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても必要じゃないでしょうか。ああ、ここに俺の進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出されるとき、あなた方は始めて心を安んずる事ができるでしょう。

で、そのような「自分の足で立つ=個人主義」を大事にするということは、当然、他の人の個人主義も大事にしないといけないと諭します。僕がいちばん面白いと思ったのは、弟子との関係性について。

意見の相違は、いかに親しい間柄でも、どうすることもできないと思っていましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、その人々の意見の発表に抑圧を加えるようなことは、他に重大な理由のない限り、決してやったことがないのです。私は他の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向こうの気がすすまないのに、いくら私が汚辱を感じるようなことがあっても、決して助力は頼めないのです。そのが個人主義の淋しさです。個人主義は、ひとを目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持ちがするのです。

生きるということは上記のようなことかもしれないですね。

歴史はこうやって教えて欲しかった!良質なミステリーのような本「世界システム論講義」

この本の基本スタンスは「勤勉だったから先進国になれて、怠惰だったから後進国で居続けたのだ」という西洋主義的な論を否定し「先進国が先進国たるために、周辺に位置する国を発達させない仕組みを作った」という主義を取る。

話は長いので、最も面白い部分だけ、サマリーを作る。世界の覇権を握ったオランダ、イギリス、アメリカにおいて、覇権を握れた理由・仕組みを述べる。一つ、面白い法則として、覇権は、生産→商業→金融の順で握られる。崩れる時もこの順番。イギリスも、まず賃金の安い地域と消費地を繋げるハブとなり、ありモノを安く提供する価値から作る。次第に商業が発展し独自の文化が生まれる。そして独自の文化を輸出していく。また、その貿易ネットワークに自分の産業を乗っけられたからこそ産業革命が起きたというのも面白い。

  • オランダ
    • コロンブスの航海以後、スペインが植民地を拡大。現地人を使って、サトウキビや銀山などの「世界商品の生産」を行うエンコミンダを実施。しかし現地人を十分に飼いならせず、かつ、自国からするとコントロールしにくく、次第に下火になった。ただし、スペイン王(カール5世)は、神聖ローマ皇帝の座を争ったフランス王(フランソワ1世)と争いを続け、没落していった。
    • その後、オランダが覇権を握れたのは、造船技術が強く、大量の積荷を安価で運ぶことができたため。せかいじゅうのものがアムステルダムに集まると、そこで商業が発達し、文化が発達し、金融が発達する。ただし、生活水準が発達すれば、賃金があがり、生産面から競争力を失っていく。
  • イギリス
    • 16世紀末、農業中心だったイギリスは、人口増加するものの国土が広がらなかったため、物価上昇を引き起こした。そこで真っ先に打ち出したのが植民地拡大だ。オランダの資金が圧倒的にフランスではなくイギリスに流れたため、フランスとの戦争に勝ち、その権利を得た。
    • アフリカの黒人をアメリカやカリブに送り、そこで砂糖・お茶を作りイギリスに運ぶ。イギリスから、砂糖やお茶が再輸出される。こうして、世界システムを相手にした商業革命が起きる。同時にノーフォーク農法という農業革命を反映した穀物も輸出された。コーヒーハウスなど嗜好品が集まる場所や、ティータイムという文化が生まれた。生活革命である。
      • 「われわれイギリス人は、地球の東端から持ち込まれた茶に、西の端のカリブから持ち込まれた砂糖をいれて飲むとしても、なお、国産のビールより安く飲めるのだ。(イギリス以外は、イギリスから再輸出されるため、法外な値段がかかってしまう)」
      • カリブ海の砂糖王と、バージニアなどのタバコ貴族。カリブ海で成功したプランタープランターを現場に任せ、イギリスに移住する不在化が進行。社会資本は一向に整備されないで貧しいまま、モノカルチャー化が進む。ただし、英語やヨーロッパ文化に影響を受けない形で、レゲエなどの独自文化がうまれた。一方で、バージニアプランターは不在化するほどは儲からないため不在化できず、結果として、自分たちが住みやすいように、現地の学校や上下水道などの社会基盤が整備する。
    • 生活水準があがったイギリス人に不可欠な綿織物が、関税がかかる輸入品から国内品に代替されていった。これが、綿織物工業から産業革命がおきた理由。幼弱な綿織物工業でも、早くから、国外市場を得られやすい環境があったことは大きい。
      • 他方、戦いに負けたフランスでは市民革命が起きた。近代西洋文明の真髄ともいえる、基本的人権の思想や自由・平等といった概念だが、実は、成人男性の人権を尊重することで、逆に、女性や高齢者を差別する方向で進んだ。結果として、労働コストが安くなった。つまり、イギリスが担った世界の商業化、すなわち地球上の全地域を世界システムに組み込むという使命を、フランス革命の論理が支えたのだ。

お金の違和感の正体に気づく本『エンデの遺言』

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

お金の重大な問題は以下に集約される。

  • パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金が同じお金でありながら、違う性質をもつ。後者のお金は、「利子」という錬金術的に自然増殖する(癌細胞のように、「対数的に」)お金の問題を秘めており、富むものがより富んで、貧しい人はより貧しくという不条理を引き起こし、また、大抵の人の生活も苦しくしている。具体的には、利子は銀行からお金を借りなくても、商品の金額の中に既に含まれており、利子がなくなれば、モノの価格は30〜50%安くなるはず。企業のキャッシュフローの4分の1が利払いに充てられている。
    • お金は劣化しない性質を持ったため、モノを持つ側よりカネを持つ側の方が圧倒的に強くなった。そのため、プラスの利子がまかり通るようになった。本来であれば、どんなモノにも代えられる価値を持つカネは、その利便性と引き換えに減価されてもよいはずなのに。
  • 問題を解決するには、マイナス利子だ。
    • 自分の炭鉱の石炭を担保にし、掘る給与として、毎月1%ずつ減価する通貨、ヴェーラを配った(3分の2は法定通貨のまま)。また、ヴェーラで購入できる商店も用意。商店に客が殺到することで、初めて、街の商店もヴェーラを扱い始めた。減価する前に使わないとということで、どんどん経済が回るのだ。
    • 街のあちこちにおかれているタウン誌の申し込み用紙に1ドル同封し、自分が売りたいものを書いて送ると、そのタウン誌に記載され、そして、2アワー送られてくる。そして、地域のコミュニケーションがはじまる。例えば、あなたが自家製パンを売っているとしたら、どんなパンがあるのかといあわせがあるかもしれない。そのヒトがピアノのレッスンをイサカアワーで受け入れていると知り、娘のレッスンを頼みます。ところが、レッスン料と自分の稼ぐアワーが折り合わない時、自家製のパンも提供するなどの交換が成り立つ。
      • 利子はゼロのモデル。「時は金なり。この紙幣は、時間の労働、もしくは交渉のうえで、モノやサービスの対価が保証されている。イサカアワーは、私たちの技能、体力、道具、森林、野原、そして川などn本来の資本によって支えられています」と紙幣に書かれている。だれも、イサカアワーで銀行ビジネスをしようとは思わないんだろうなぁ。

結果、ヴェーラは法定通貨を脅かす存在として禁止され、イサカアワーは推奨された。
あまりに急激に不況を救うなどして、目立ちすぎたからではないかと推察する。イサカアワーは、地域密着のポイントのような絶妙な位置付けに留まった。

なお、上記の不条理についてのモモの一節がこちら。
灰色の男が、利子をさしているのだろう。

モモは、マイスター・ホラに『あの人たちは、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?』と尋ねる。マイスター・ホラは答える。『死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。お前も知っているだろう、彼らは人間の時間を盗んで生きている。しかし、この時間は、ほんとうの持ち主から切り離されると、文字通り死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれの自分の時間を持っている。そしてこのじかんは、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ』『じゃあ、灰色の男は、人間じゃないの?』『ほんとうはいないはずのものだ』

缶コーヒー=「化石人間の口寂しさ・暇を紛らわす何か」

久しくこのブログのことを忘れてた。でも、このテーマで、色んなことを思考しておくというのは、とても有意義と思い、再開。

 

缶コーヒーに君臨する「BOSS」。その商品企画を仕掛けてきた人のインタビューが面白かった。

キーワードは、「ブルーカラー」「何処でも買える(=自動販売機)」「CM(良く知ってる)」だ。自分の体を使って働く訳ですか。だからカフェインが入っており、砂糖やミルクをたっぷり使った缶コーヒーという飲み物は、いわゆる「エナジードリンク」として機能していたとのこと。

 

正直、上記の言い方は、「よく言えばそうだよね~」というふうに思う。

 

身も蓋もないことを言うと、口寂しいときに、そこにあるから、なんとなく知ってるから、昔からしてる(飲んでる)から、買われているものだと思う。つまり、ガムのようなもの。でも待てよ、ガムは市場規模が4割減というではないか。缶コーヒーは横ばいなのに。これはなぜだ。

 

 

 

この記事では、ガムの売れ行き不振は、セブンカフェ等のコーヒーや、スマホに、その暇つぶし・口寂しさを取られたからという風に帰結している。

 

たぶん、ガムを噛んでいた比較的若者は、缶コーヒーと違うコーヒーやスマホで代替するようになったんだけど、缶コーヒーを買ってるおっさんは、コンビニが出来ようがなんだろうが、いつまでも缶コーヒーを買ってるってことなんだろう。(にしても、スマホにも代替されないって凄いよな、缶コーヒー)

 

こう考えると、化石人間の口寂しさ・暇を紛らわす何かってのが結論になる。

抽象化という概念が重要なことを知らしめる奇跡の書『料理の四面体』

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)


この本には、とにかく驚かされた。

僕はこれまで、料理とは、よく言えば芸術的で、悪く言えば非科学的な代物と思っていた。というのも、「フランス料理はソースが命。ソースは、何百、何千もの組み合わせがあり、それをマスターするには十数年かかる」というような高尚さを自慢するような説が多いからである。

この本は、その真逆だ。

地球上に存在する膨大な料理方法、料理を、「空気」・「水」「油」という三角形を底辺に取り、「火」という時間と量の変化の過程で解明する。

そして、そのことで、下記のような「主体的な料理」が可能になる。

四面体の原理を頭におきながら、ひとつひとつ基本プロセスに分解する。そうして、その料理の根本をつかんでおけば、好みに応じて、不必要なプロセスを省略してみたり、指示されている調味料・香辛料を自己流に変えてみたり、といった末節な作業は記述に惑わされることなく、主体的に行うことができるはずである


おおお、これこそ、ロジカルシンキングの意味ではないか!

この他、下記のような雑学も面白い。

13世紀の終わりくらいに、「鉄鍋」という文明の利器が家庭に入り込んで来て、今日の中国料理のスタイルを築いた。

暖炉→オーブンを万能調理器として活用して来た西洋人は、ふつうの煮物までオーブンの中に鍋ごと入れてしまうようなクセがつき、火にかけた鍋で油を操るテクニックには習熟しなかったのかもしれない。そのうえ、目的に応じて様々な大きさの深さの鍋を使いこなす個別化主義の西洋料理哲学は揚げ物のために揚げ物専用の深鍋を用意してしまったために、せいぜい2種類くらいの分類しかできなくなってしまった。その点、中国人は、大きな中華鍋一個を用いるため、そこに落とした一滴の油が鍋いっぱいになるまでのあらゆる過程で、さまざまな原料が様々なことなる形に変化していく様を連続的に眺めることができた。

揚げるという料理方法を分類し、その分類を使い活用していく姿が実に軽妙なので、紹介する。

揚げるは、四つに分類される。

  • 素揚げ
  • 粉揚げ
  • 衣揚げ
  • 変わり衣揚げ

材料は水分を含んでいるので、黒焦げになる恐れがあり、イモなど澱粉質を多く含み自らを守れるもの以外は、素揚げしない。こうした危険を防ぎ、外はカリカリ中はホカホカにするのが粉をまぶして揚げる唐揚げ。衣とは、粉をなんらかの液体にといた流動体をつけて揚げるもの。フィッシュアンドチップスは、タラやメルルーサに、小麦粉をタマゴと牛乳で溶いたものをよく練ってパイ生地のようにしてから付けて揚げる。技法は天ぷらと一緒。


揚げると炒めるの違いは、油の量。この違いを使い、日本のトンカツは、西洋カツレツの限界を打ち破った例も面白い。西洋カツレツは薄いが、日本のトンカツは厚い。


シャロウフライで炒めるのにカツレツの肉は薄くないといけないし、しかし、ぬるい油でフライしたらベチョベチョになってしまう。それが、西洋カツレツの限界だ。日本は、油たっぷりのディープフライで、外が焦げる前に、中に火を通し、ぬるい油でじっくり揚げながら、しかもべちゃべちゃにならないテクニックを作り出した。それがトンカツ。

夢ってこういう風に向き合えばいいんだなと理解できる本『クランツボルツに学ぶ夢のあきらめ方』



お笑い芸人の中には、クリームシチューや博多華丸大吉のように、幼馴染のコンビが少なくない。100万人に1人レベルの才能を持った人間がたまたま同級生に居たということは、確率的にありえない。これは、実は、100人に1人レベルの才能が100万人に1人の才能になるまでのプロセスがあることを意味している。


学年に1人はいる面白い奴(100人に1人)
↓冒険性
芸人を目指す(10000人に1人)
↓楽観性
辛さに耐える、プチブレイク。(10万人に1人)
↓好奇心と柔軟性の維持
天狗にならず仕事を選ばない。何でもやる。(100万人に1人)

バリエーションが増えて、コネクションが広がる
↓持続性
チャンスが来て、ブレイク


本書では、「冒険性」「楽観性」「好奇心」「柔軟性」「持続性」が高度に組み合わさることこそ、夢を叶えるプロセスだと解く。

「土俵にあがるとプチブレイク」は案外可能である(上記の例だと、芸人を目指せば、次のステップは10人に1人レベル)という事例として、殿様になる確率を計算して居て、非常に面白い。

徳川の143藩ある譜代大名をみてみると、安祥譜代7家、岡崎譜代16家、駿河譜代31家。当時、お百姓が侍をやっていたことが多く、それらを除外すると、家臣は、上記の譜代合わせて200名程度しかいませんでした。つまり、土俵に立てた人ベースに考えれば、3割ものヒトが殿様になれたことを示す

これは、部長になるくらいなら3割くらいがなれるという事実とも合致する。加えて、この本では、プチブレイクまでは結構な割合でできて、そこからは、いくつかの他流試合をこなし、自分がブレイクできるかどうかを見定めろと説いている。そして、難しそうなら、次の夢にいけと。

とても実践的な本だと感じた。

退屈とは何かの考察が興味深い『暇と退屈の倫理学』

コンテンツは、決して生きるために必要なものではなく、「暇」を埋め、「退屈」を逃れるものだ。
そういう意味で、コンテンツにおける市場である"暇市場"の構造を知ることは意義深い。

  • 「退屈」の定義
    • ラッセルいわく、昨日と今日を区別してくれる事件が起こることを望む気持ちがくじかれたことと定義する。つまり、区別してくれることがなんであれ(それが良くないことであれ)、昨日と今日を区別したいとみな思ってるということ。
    • そして、この起源を、パスカルは「人間の不幸というものは、みな、部屋の中で静かに休んでいられないことから起きる」と述べている。つまり、人間は定住するようになってから、暇と退屈と戦う様になったのだ。
  • 「退屈」には、3つの形式がある。
    • 第一形態
      • たとえば、われわれはある片田舎の小さなローカル栓の、ある無趣味な駅舎で腰かけている。次の列車は4時間たったら来る。この地域は別に魅力はない。なるほどリュックサックに本を1冊持ってはいる。では本を読もうか?いや、その気にはなれない。それとも何か問いか問題を考え抜くことにするか?そういう感じでもない。時刻表を読んだり、この駅から別の地域までの距離の一覧表を詳しく見たりするが、それらの地域のことは他には何もわからない。時計を見る。−やっと15分過ぎたばかりだ。
      • 退屈させる対象に対して、主体が気晴らしをしている状況。のろい時間が我々を引きとめている。暇があり、退屈しているという一番シンプルな形。
    • 第二形態
      • われわれは、夕方どこかへ招待されている。だからといって、行かねばならないということはない。しかし我々は一日中緊張していたし、それに時間が空いている。そういうわけだから、行くことにしよう。そこでは慣例通りの夕食が出る。食卓を囲んで慣例通りの会話が交わされる。全てとてもおいしいばかりではなく、趣味もなかなかいい。食事がすむと、よくある感じで、楽しく一緒に腰かけ、多分、音楽を聴き、談笑する。面白く、愉快である。そろそろ帰る時間だ。婦人たちは本当に楽しかった、とってもすばらしかったと確かめるように何度もいう。それも、別れのあいさつのときだけではなく、下へ降りて外にでて、もうすでに自分たちだけになってしまっているのにそうしている。その通りだ。とてもすばらしかった。今晩の招待において、退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる。すると、そのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだと。
      • パーティ全体が気晴らしであり、退屈を生む。のろいわけではないものの、決して逃れられないという意味で、根源的な時間への引きとめをくらっている状況。暇がないのに、退屈しているという人生そのものに近い。
    • 第三形態
      • なんとなく退屈だ
      • なにもないだだっぴろいところにぽつんと一人取り残されているような状態。そんなとき、人間は自分に目を向けることを強制され、この事態を突破する可能性を見出すことを強制される。その可能性、つまり自由を与えられて、人間は決断するべきなのか?
  • 人間が極めて環世界移動能力が高く、一つの環世界に浸っていられないゆえに、退屈は生まれる。
    • 全ての動物・人間は、環境から受け取るシグナルが異なり、そのシグナルによって世界を構成しているので、別々の時間・空間を生きている。
      • たとえば、人間にとっては18分の1秒が感覚の限界。それ以上高速につつかれてもずっと押し当てられていると思ってしまう。魚は30分の1秒が感覚の限界なので、魚からしたら、人間はノロマな生き物に見えているかもしれない。
      • たとえば酪酸のにおいを待ち続け18年間絶食していたダニが見つかったが、人間には到底待てないと思うが、ダニからしたら「寝てた」ようなものなのかもしれない。
    • 人間は、動物に比べ容易に環世界を移動できる。たとえば、数か月星空のことを勉強するだけで、星空をみるときの感覚はまるで変わっていることだろう。これは、環世界を移動したと言える。
  • 人間は、第二形態がもたらす、安定と均整の中で生きている。が、何かが原因で、第三形態の「退屈だ」という声に脅かされ、自分の心や体や環境に故意に無関心になり、何かの奴隷になること(第一形態)で安寧を得ようとする。つまり、決断し、何かを選び取り、それ以外をしないという選択は、第一形態に陥ることと同じだ。
  • つまり、退屈は、人生に付きまとうものである。が、その対抗策がいくつかある。一つは、観念を受け取ることの奴隷(=第一形態)に陥りやすい”消費”から逃れ、”モノがあふれる浪費(=モノを楽しむ)”べきだということ。
    • ただし、浪費、楽しむためには訓練が必要。たとえば、第二形態の事例でいえば、慣例通りの食事といっているが、不味かったのか、おいしかったのかが不明だ。知識があれば、感想も違っていたはずだ。つまり、訓練不足で食事を受け取れなかったといえる。これらを訓練することで、暇はあるけど退屈しない貴族のような状態になれる。
  • さらに続きがある。食べることを楽しむとどうなるか。次第に食べ物について志向するようになる。おいしいものが何で出来ていて、どうすればおいしくできるのかを考えるようになる。思考することこそ、一つの環世界に留まりやすくなるコツであり、少しだけ動物に近づく意味で、退屈から逃れられる。
    • ドゥルーズの言葉が素敵だ。「なぜ、あなたは、毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力は、いったいどこから来るのか?」と問われると、「私は、(動物になることが発生する瞬間を)待ち構えているのだ」と答えたという。

本書を読んで感じたこと。まさに、本屋に行って、本に出会うとは、退屈への対抗策になっているのではないかということ。本屋とは、世の中の出来事の縮図と言えるため、美術館や映画館より、遥かに汎用的なとりされられるための空間と言える。そして、本を読むとは、ある事象に関する周辺知識を得ることで、その事象自体をより楽しむことに繋がるからだ。

一方で、本屋⇒本に出会うというプロセスを踏まないで、検索などで本に出会うということは、何かの強迫観念に基づいており、本を消費しているだけと言えるかもしれない。