教師=自分を一番に考えてくれてはいない他人と関係性を築く欲望
どちらの家庭でも、「スマホに聞いて」というやりとりは多いのでは?
知識を教えてくれるという価値は、インターネットに吸い取られました。そんな世の中で、学校の教師の役割はなんだろう。
僕の高校時代の18年前も板書を書くだけの先生がいた。その頃も、プリント配れよと不満タラタラでしたが、携帯のカメラがあるいまでは、たぶんそんな教師は生存できないんじゃないかな。
丁寧にわからない箇所を解説してくれる価値はどうだろう。それもあるとは思うが、それができない教師もいるし、それだけじゃない感もある。
ちょっと自分の昔話を考えたいと思う。
中学3年の担任先生のi先生が忘れられない。普段は、紫のスーツを着こなすような半分ヤクザな人だった。元ヤンキーだった先生だ。中学3年のとき、何故かテストの点数が、10科目平均で、94点ということがあった。今までもそこそこテストの点数は良かったのだが、いきなり学年一位になったのだ。ガリ勉たちは驚愕して、僕の周りを囲んできたのをいまでも覚えいる。
その学年一位ということを、僕とみんなに初めて伝えたときの先生の喋り方が忘れられない。
「おい、ちょっと前にこい」
「はい。(なんか怒られることやったっけ。)」
「おまえ、」
「は、はい。」
「学年、一位だ。一位は、二位よりはるかに凄い。おめでとう。」
なんか、じんわり来たんですよ。
i先生とは、めちゃくちゃ仲良かったわけじゃない。でも、だからこそ、彼の重きを置いてる考えが伝わったというか。ヤンキーは、階級社会だ。トップの凄さは痛いほど知ってるんだと思う。だからこその言葉だったと思う。
話を纏めます。
自分のことを一番に考えてくれた親じゃない他人と接し、その人の価値観にふれ、関係を築くという、欲望が、教師に金を支払っている正体だ。